雪の匂い雪の匂い「ユミさ、冬の日本海って訊いたことある?」 俊哉が唐突に云った。 「演歌?」 「ばか、海の音のことだよ」 「そこ、静かに」 先生のお叱りがとぶ。 さっきから授業も訊かずに、 ずっと外ばかり眺めていた俊哉は、私に向かってチョロッと舌を出すと、 再び窓の外へ意識を移してしまった。 先生さえ見逃してくれれば、もっと会話が続いたかもしれないのに。 私は唇を尖らせたまま、彼の視線の行方を探す。 葉のすっかり落ちてしまった、 こげ茶色した裸の木々が並ぶ教室の外の脇道。 全ての輪郭が張りつめていて、その寒さが伝わってくる。 薄い霧のような風がサラサラ流れて、 今にも雪が降りてきそうな空。 あと何日寝たら、初雪を見られるんだろう…。 顎を乗せた左肘の軟骨が、ビリリと痛んで机上から外れ、 落ちた。 バランスを失った態勢は見事なまでに傾き、 恥ずかしさを隠すために咳払いをひとつ。 「もうすぐくるよ」 小さな声が耳に届く。 「え…」 「雪。もうすぐ降る」 「ほんと?」 身を乗り出した瞬間、また、先生と眼が合う。 「うん、雪のにおいがする」 「…におい」 春に東京から越してきて、初めて迎える北海道の冬。 そんなユミにとって、雪の匂いなど感じたことはなかった。 まして、雪に匂いがあることさえ、 今初めて知った。 「乾いたにおいでさ、ちょっと甘いんだ」 「甘いの?」 声をひそめて訊き返す。 「なんとなくね」 俊哉は照れたように微笑した。 高校生の男の子にしては大人びた笑い方で。 思わず、鼻に神経を集中させるけれど、 ストーブの焼けた石炭と教室の空気とが混ざり合った匂いしかしない。 時折、熱に暖められた木の匂いがかすかに漂うだけ。 この高校は、札幌ではもう希有となった石炭ストーブを使用している。 ほかには手稲にある小学校だけなのだと、最初に訊かされた。 十月の末に各教室に据えつけられたストーブの周りは、 まだそんなに寒くもない気温でも、 休み時間になると生徒が大勢集まってくる。 暖をとるというより、お喋りのためにやってくる。 十代中ごろの生徒たちが、 狭い場所にみんなで集まって本当に仲良くしている光景を、 東京ではあまり眼にしたことがなかった。 同じ高校生でも、こうも違うものかと驚く。 そして、石炭ストーブがこんなに熱を放出するものだと知ったのは、 十一月に入ってすぐの、席替えの後だ。 くじ引きで決まったユミの場所は、教室の一番左前。 つまり、ストーブの眼の前だった。 お昼を過ぎる頃になると、顔が火照って赤くなり、 眼も頭もボーっとしてくるほどに、よく燃える。 意地の悪い男子生徒が、時々私を見やっては、 「先生っ、萩野がまたボーっとしてます」 などと、 この苦しみを知ってか知らずか大きな声を張り上げる。 その度に、赤い顔を全生徒に確認される恥ずかしさは、 多分しばらく消えない。 この地域で育った生徒たちにとって、 その言葉がちゃかしであることくらいわかっているだろう。 どんなにその場所が熱いかということも。 けれど、やっぱり指をさされている方を見てしまうのが人情である。 転校生は、そんな惨めな洗礼を受けて、仲間としての素質を問われる。 悲しいけれど。 でも俊哉は違っていた。 特段の関心も抱かないかわりに、 これといって他人行儀な素振りもしない。 クラスの中、というより同年齢層の雰囲気とは明らかに違う、 大人びた冷静な表情を持っている生徒だった。 日本語の語彙の多さと表現の豊かさ、 そしてひんやりとした手。 ノートを手渡す時にかすかに触れた、 耳たぶの冷たさほどの手がとても印象的だった。 誰にも興味を持たないような眼差しは、どんなに暑い太陽の下でも、 プールのように澄んでみえた。 札幌という見知らぬ土地にいながら、 東京の程よい関係がいつも存在しているようなそんな距離に、 ユミは親近感とか安心感を覚えていた。 俊哉は、東京の友達に少しだけ似ていた。 その彼が、何故かユミを名前で呼ぶ。 他の同級生の名は苗字でしか呼ばないのに。 嬉しかった。 友達がすぐにできた気がしたから。 けれど、やっぱり特に仲良くもならなかった。 言葉も、隣席なのに少ない。 思うような会話は成立してこなかった。 だから、この会話は大切にしたい、 このまま続くようにと心から願った。 ――放課後ジャンプ台に行かない? 俊哉は鉛筆を走らせ、私の方へノートをずらすと、視線を合わせた。 何かが通じ合うような、不思議な一瞬だった。 そして再び彼の左手が動く。 ――いいもの見せてあげるよ。 バスを降りると、ジャンプ台が近い山にしては、 思っていたより家が多かった。 喫茶店やマンション、多くの一軒家がバス通り沿いに等間隔に立ち並び、 物静かな生活感が漂っている。 そして、山の涼しい風が頬をなでて吹き過ぎる。 「こっちだよ」 俊哉は私を眼でうながし、信号のない車道を渡った。 バス停の二十メートル程前方で、道が左へ大きく蛇行しているため、 いつ車が出てくるともわからず、 しかも見知らぬ土地なのも手伝って、ひどく緊張する。 「大丈夫だよ、そんな怖い顔しなくても」 「どうして信号つけないんだろ」 「こんなアップダウンの激しい坂道で信号つけたら、冬が大変だよ」 「そっか…雪積もるから滑っちゃうか」 「ロードヒーティングしてるから雪は大丈夫だけど。ドライバーにとっちゃ迷惑な話だよ」 彼は、まるで住人のように笑うと、 手にしていたザックを背負い直した。 どうやら、まだしばらくは歩き続けそうなかんじだ。 街燈にあかりが灯り、午後五時を回った山の空は、 眼下の街よりも早く暮れる。 ここから見ていると、空が西の海へ向かって、群青色に染まっていくのが、 はっきりとわかった。 ため息がこぼれて、初めて、 自分が放心していたことに気づいた。 ジャンプ台を背にして、 ちょうど視界がひらけている駐車場の白いガードレールに腰かける。 上手くバランスをとらないと、吸い込まれそうだ。 オフィスビルや工事中の駅舎のクレーン、 空へ向かって弧を描いて放たれる光が、少しずつ、 その存在を主張し始める。 時間の流れは、ユミが思っていたよりも速い。 「俺さ、妹がいたんだ」 「妹?」 「ユミっていう名前で、三歳(みっつ)下なんだ」 「おんなじだ、名前」 「妹のほうが少し、髪が長かったかな。それに、寂しがり屋の裏返しで、すごく気が強くて、わがままなんだよね。だから、ユミとはあんまり似てないかも。同じ名前だけど」 「私も気が強いかもしれないじゃない」 「だとしても、妹にはかなわないよ」 苦笑いをして街をみつめる。 夜気のせいで、白く光る横顔。 ちりちりと音が訊こえるように瞬いている街の灯かりが、 俊哉と自分の眼に映っているのがわかる。 同じ景色を見ているのだ。 「去年死んじゃったけどね」 ポツリ、静寂を破る言葉が響く。 「え…」 言葉が呑みこまれて、消える。 「事件に巻き込まれて、流れ弾にあたっちゃったんだ」 「…銃? どこで」 外国の名が頭を過った。 「うち」 俊哉は、 途方もなく感情のこもらない眼をして、ほんの一瞬だけ笑った。 ふと和らいでみえる口元。 「親父が事業やっててね。その関係で悪い奴に逆恨みされて」 脅しのつもりで家へ発砲された弾のうち、一発は窓に命中。 二発目。 運悪く窓際に居合わせた妹の腹部に中ったのだという。 留学先から帰省していた間の事件だったらしい。 「犯人は勿論つかまったけどね」 まるで他人事のように淡々と、 小説の頁を捲るように言葉が流れていく。 ユミは、どこか遠い国の話を訊いている気がしていた。 少なくとも、眼の前の、友人の肉親の死が語られているとは、 信じられなかった。 何て云ったらいいのだろう。 何でこんな話をするんだろう。 ちょっと楽しくて、 幸せだったらそれでいい毎日しか送って来なかった自分の世界は、 俊哉の住んでいるそれとは、 全然比べ物にもならないほど違っているのだと感じられた。 家族が集まって笑っていられる環境とも異なるのだ…。 その大人びた表情や冷静な物腰の理由(ワケ)はこれなのかもしれない。 ユミの知らない世界が、確かに身のまわりに存在している。 近づけると思っていた、俊哉との距離は、 より一層広がってしまった。 彼のいる場所は、どんな色をし、 どんな温度に包まれているのだろう。 でも、知らないほうが幸せなこともあるって、 きっと、こういうことなのかもしれないと、おなかの中でつぶやいた。 決して、俊哉には訊こえないように。 「ほら」 不自然なほど温かい声で、俊哉が空を仰いだ。 つられて頭を上げてしまった自分の幼さに、後悔する。 彼がどんな表情(かお)をして眼を開いているのか、 確かめもしなかった。 いや、できなかった。 …怖くて。 そのとき。乾いた空気が、鼻の奥と喉のあたりで混ざった。 眼の中に、白いまるい浮遊物が現れる。 それは、睫毛のうえで起きた小さな風に吹かれて、ユミの唇に落ちた。 そして溶けた。 「雪…?」 「云っただろ?」 笑う俊哉の鼻にまたひとつ、白くて、淡くうすい雪が消えた。 「冷たくないんだ…」 もっと、ひとつひとつが冷たさを持っていると思っていた。 「こんな嘘みたいなのが、海の音を閉じこめちゃうんだ」 「海の音を?」 「雪の中で海が蠢いて、躰の底に、冬の海の雪にくぐもった音が響くんだ。全身が鼓膜になったみたいな…自分も雪の中に閉じこめられてるような、凄いんだ」 にわかに冷静さを失った口調で、 俊哉はガードレールから地面へと体重を移す。 「ユミはきっと、立ってられなくなるよ」 その笑顔を確認して、ユミはもう一度、鼻で呼吸をした。 ひんやりとした空気が鼻腔を通って、喉に到達する。 再び喉と鼻がくすぐったくなる。 これが、甘いというカンジだろうか…。 「よく来るの? ここ」 「家が近くなんだ。ジョギングしながら通りすぎることが多いから」 「朝?」 「まぁね。夜はお袋が心配するから来ないよ」 「そっか…」 俊哉はどんな思いでここを走るんだろう。 「ユミさ」 「?」 「ユミは死んじゃだめだよ」 真面目な顔をした俊哉が、 まだガードレールに腰掛けたままの私の前に立ちはだかる。 「お母さんやお父さんが心配するようなことはしちゃ駄目だからね」 しっかりと私の眼を観て、私自身に話かけてくる。 その眼は怖いほどにまっすぐで、 何か大切なことを伝えたあと、 私を置いて消えてしまいそうな雰囲気だった。 「…俊哉もだよ。どこにも行っちゃだめなんだから」 必要以上に神妙にならないようにするほど、 冗談っぽく響く自分の声。 「大丈夫だよ。俺はどこにも行ったりしないよ」 「本当に?」 「行かないよ。馬鹿だねユミは」 眼を細めて、顔いっぱいで笑う俊哉。 左手で私の髪をくしゃくしゃにする。 泣きたいワケでもないのに、涙が出そうになった。 冷たい空気と雪が息を白く透き通らせる。 睫毛のうえに舞い降りた白いそれは、瞬きすると一緒に動いて、 まだそこにいた。 眼に映る影が、睫毛に乗った雪洞(ぼんぼり)のせいでゆがむ。 「年が明けたら、海に連れてってあげるよ」 「いつ?」 「一月頃かな。ユミがいい子にしてたらね」 足元が岸壁になったような気がして、ユミの躰がかすかに揺れる。 俊哉の言葉は多分、私を通り越して、 妹を見つめているんだろう。 私が妹でないことをわかっていながら、どこかで接点を探している。 誰も知らない二人だけの秘密を抱きしめているような、 躰の奥が疼く感覚を覚えた。 「帰ろう…」 俊哉の左手にそっと触れる。 心臓をつかみとられるような苦しさと刹那さで、口の中が渇いた。 その空気は、少しだけ甘かった。 ジャンル別一覧
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